何かをきっかけに、ふと、自分の中からある感情がふつふつと沸き起こる時があります。その瞬間、その感情を何かにカテゴライズする必要はないな、と思いました。
怒りのような、悲しみのような、ルサンチマンのような、やりきれなさのような、救われなさのような。
その、まだ何者でもない何かに遭遇したときに、それを【まだ何者でもないもの】として扱ってみる。
例えば、作曲家は音楽で、作家は言葉で、画家は絵で【それ】を表現するでしょう。彼らは感覚を研ぎ澄ませて、また、自身の時間と集中力を持って【それ】を何かに変換させていきます。
一方で(ぼくもまたその一人ですが)、日常を生きていると、流れていく生活のなかで、その【何者でもない気持ち】に折り合いをつけてしまうことがあります。
もしくは、シンプルな一つの枠組み(例えば「怒り」とか例えば「悲しみ」)に収斂させてしまうことがあります。
そういうまとめ方をせずに、出来る限り、複雑なものを複雑なままな状態にしておく。【何者でもないもの】を【何者でもないもの】にしておく。そうしておくことが、自分の「余白」や「間」に繋がるのではないか。そんなことを昨夜、考えました。
さらに、それは感情だけに限らず、コミュニティでも同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、まだ何者でもない人物を、過ちや欠点なども含めて、いかに包容出来るか。
【そもそも複雑な要素を持つ人間】を、シンプルな一つの枠組み(例えば「賢い」とか例えば「偉そう」とか)にカテゴライズするのではなく、それだけではない眼差しを持って、相手を見ることが出来るか。
そんなことを考えました。