『出来る』から信頼されることは光栄だ。一方で『出来ない』からこそ信頼されることは幸せだ

親の集まりで、子どもたちが騒いでいる。

子どもがうるさかったら、親は「静かにして」と言うだろう。しかし、昨日、吹田市の千里丘で行った【親子で合唱サークル】の練習では、子どもたちは親の練習する多目的室の中で、殆ど放任状態だった。

その多目的室に居るのは、自分の子どもと親だけなので、誰に気を使う必要もない。子どもたちは好きなように遊び、はしゃぐ。大人は『アンパンマンのマーチ』や『Jupiter』を歌っている。

子育て中のママが、子どもを気にせずお腹から声を出して歌う、という時間は貴重だと考える。子どもがいくら騒ごうともそこにいるのは当事者だけなので「お互い様」という感覚だ(とぼくは思っている)。

『迷惑をかける』ことを推奨したいな、と練習していて思った。

例えば、ぼくは昨日はキーボードを持参して『上を向いて歩こう』や『ひまわりの約束』をピアノで弾かせてもらった。とっても楽しかった。しかし、ほとんど弾けない。弾けたとしても、左手だけで各小節の一音目ぐらいだ。ベースのような役割。それでも、ピアノを弾く喜びが芽生えて、アドレナリンが出た。

これは他人を気にすると「こんな状態で練習もしていないのに弾けていないのに申し訳ない」となる。せっかく出たアドレナリンは影を潜めてしまう。

同様に、例えば、歌が好きなのに、合唱が好きなのに、子育てをしていて、子どもが騒ぐから「申し訳なくて出来ない」というママがいたとしたら、ピアノを全然弾けずに迷惑をかけているぼくと同じだと考えてほしい。

それに、大人からみたら『子どもが騒いでいる・うるさい』のかもしれないけれども、視点を変えれば、子どもは自分の中にある溢れんばかりのエネルギーを放出してるとも言える。

だから、迷惑をかけることを『お互い様』と許し合う場になれば良いな、と昨日思った。

それは親子で合唱サークルに限らず、京都の合唱団(アンサンブルエバン)もそうだし、家族もそうだし、友人もそう。ドタキャンを2回もされても、前田スコップ智章くんとは、ヘラヘラと仲良く付き合っている。

『出来る』から信頼されることは光栄だ。一方で『出来ない』からこそ信頼されることは幸せだ。