相手から「それは違う」という意見をぶつけられた時に、思わず論破したり、ねじ伏せたりしようとしてしまうことが、人間、誰しもあります。
そうしてしまう裏側には「自分の意見が正解だ」と思いたいから、という気持ちがあります。相手は間違っていて、自分のほうが正しい。
指揮者をしていても、そういう場面によく出くわします。
合唱団が演奏していて、自分の意見が合唱団に伝わらないと「なんでだよ」という気持ちになり、無理矢理にでも押し通そうとしてしまうかもしれません。
でも、同じ空間で同じことをしていても、一人ひとり感情は違えば、立場も違います。一人ひとりにその人だけの正解があります。
指揮者というのは人前に立って先導していく、という役割も兼ね備えているので、誰かから否定された時に「自分の意見は間違っていない(と思いたい)」という強がりから、押し通す、という選択をしてしまう人は多いです。
しかし、本当に自分の意見が間違っていない、のであれば、そこで強がりは生まれません。心のなかでどこか不安や劣等感・恐れていることがあるから、虚勢がその瞬間に出るのでしょう。
※ ちなみに、ぼくからすれば、そんな小さな見栄などさらけ出してしまったらどうか、と思います。だいたい、隠そうとしても、もうその隠していることは皆、ほとんど気づいているものです。
ぼくは自分が事前にしっかり準備していないことを合唱団に隠そうとしないし、自分が細部まで「聴こえていない」ことを隠そうとしません。それがぼくの凹みであり、かつ強みに繋がるので。
そもそも、絶対的に正しいものなんてありません。自分がそこで生まれた感情・意見は正しいです。同時に相手がそこで生まれた感情・意見も正しいです。
その多様にある正しさを『どちらが正しいのか』とぶつけ合ってしまうから、喧嘩や戦争など闘いが起きます。どちらも正しいのです。
ぼくは今、合唱団に意見を伝えるときは「(自分の中で)違和感を感じた」という風にしようと意識しています。それは、自分の感じた感情に自信があるからです。だから、もっとも無垢な状態の違和感をそのまま煮ず、焼かず、ナマのままさらけ出します。
自分の感じた違和感を何も服を着せない状態で出す。違和感の反対側には自分の望む世界がくっついています。そこにたどり着きたい。
往々にして、人は批判だけします。おそらく文句を言うのが「楽しい」のでしょう。
でも、批判の反対側にある「じゃあ、一体どうしたいの?」という一歩には踏み込もうとしません。意見をぶつけるのではなく、その裏側にある「どうしたいの?」で歩み寄れば、世界は平和だと思います。
・・・つまり、今日言いたいことは妻と平和に暮らしたい。以上です(笑)いや、最近は平和ですよ。