問題が起きた時それは<自分>に戻るために起こっている

問題が起きたとします。

その問題の<エネルギー(感情)>の中に滞在している間は、その問題はずっと自分と同居しています。おそらく、その人は問題と共に暮らすことが『好き』なのだと思います。ぼくからすれば。

一方で、前進しようとする人は、その問題は一旦横に置いておきます。そして<ある(有る)>や<気分が良いこと(ワクワク)>に目を向けます。

例えば、ぼくは数年前まで合唱団についてこんな問題(という思い込み)を持っていました。

合唱団の練習に行きます。でも、人が揃っていない。人数が少なくて思うように練習を積み重ねていけない。結構、悩みました。

それから数年後の今、合唱団の人数について状況が変化しているか?といえば、相変わらず少ないのですが、それについて殆ど悩まなくなりました。

合唱団の状況は変わっていないのに、悩まなくなった。それは自分の<思考・感情>が変化したからだと思います。

簡単に言うと『人が揃っていない』のを問題だと思わなくなった、ということです。そして『積み重ねていくことが出来ない』ことも問題だと思わなくなった、ということです。

むしろ、一人でも集まったメンバーと一緒に、その日・その瞬間、何が出来るか?と思うようになりました。本番だけでなく、練習だって一期一会。

さらに『ぼくだけが指揮者として絶対に練習に毎回行かなくてはいけない』という思い込みを外すために(も)、去年は11月から1ヶ月だけ練習を休ませてもらいました。

そもそも、ぼくはコツコツ積み重ねていくタイプというよりかは、瞬発力の打ち上げ花火タイプだったことにも気が付きました。無理をしていたわけですね。「積み重ねていかないと、良い演奏は出来ない!」みたいな。

※ 「良い演奏をしたい」事自体は良いのですが「良い演奏をしなければならない」に気持ちが偏りすぎると、それは結局「合唱団をよく見られたい=自分をよく見られたい」という見栄。これが実は本質なのだと思います。

結果、合唱団は今も2週間に一回のペースで楽しく継続していますし、ぼくより有能な若い指揮者がバリバリ練習を進行してくれていました(再開した時に「練習をしてくれてありがとう!」と感謝を伝えました)。

※ ちなみに、ぼくはぼくで有能です(笑)というか、みんな、それぞれの立ち位置において有能なのです。みんなにそれぞれの才能があります。

問題が起きた時、それはダミーで、その本質は<本来の自分>に戻るために起こっていると捉えます。<自分>から外れているから、問題が起こってくれている。

なので、いつまでも問題が引き起こさせる感情の中で右往左往するのではなくて「その問題は一体自分の中にあるどういう<望み>を教えてくれているのだろうか」という視点で捉えると、それまでの制限が外れます。

問題のエネルギーの中にいても解決しません。じゃあ、自分はどこに向かいたいのか、というカーナビに目的地を設定する。いわゆる、しなやか思考ですね。

投稿者:

橋爪大輔

1985年生まれ