主役と脇役

おはようございます。今朝は7時に起きました。

編集を始めた「壱岐島」の動画が、昨日の内に完成!今夜19時にYouTubeで一般公開します。

ぼくの新たな「表現手法」の最初の一歩、という動画になりそうです。ぜひご覧ください!

今夜19時に公開

この動画の中には、福岡のチャネラー・maikoさんや、弁財天の唄うたい・ツダユキコさん等が登場します。

お二人とも、とても才能のある、素敵な女性の方々です。

それでも、今回、ぼくは「自分を主役」にさせてもらいました。この動画の主人公は自分。

そして、そこに出てくる他の登場人物は「脇役」として、動画に花を添えてもらった。

動画に深みを増すための役割を果たしてもらった。そのような取り扱いをさせてもらいました。

もちろん、それはぼくが上で二人が下、ということではなく。

ツダユキコさんにとっては、ユキコさんが「主役」でぼくが「脇役」ですし、maikoさんにしても同じ。

皆、自分が「主役」で相手は「脇役」です。そう捉えることが出来ると、自分の人生を生きることが出来る。

それを、自分を「脇役」「下」に自らしてしまうから、マウンティングする他人が現れたり、自分らしく生きることが出来なかったり、ややこしい状況になってしまう。

本当は自分は「主役」だと思っているのに、自らへりくだって「脇役」を演じてしまうから、他人と噛み合わなくなる。ずっとその位置にいるから物語も前に進まない。

あるいは、自分が「上」で相手が「下」だと感じているから、マウンティングしてしまったり、思い通りにコントロールしようとする傲慢さが現れる。

コントロールしなくても、マウンティングしなくても、全ては整っていて、ちゃんと花を添えてくれるのに。相手の存在を信じることが出来ない。

それぞれがお互いの人生を「主役」として生きていれば、自然と出会うべき人と出会い、相手は自分にとって「脇役」になり、同様に、自分は相手にとっての「脇役」になる。

脇役は主役に花を添えてくれる。だから、お互いの存在は自分にとっての「花」となり、ぶつかることがない。

いや、もしかすると、ぶつかる相手の存在も、自分の物語を前に進める「花」なのかもしれない。

自分が「主役」だと捉えられたら、自分の周りの全ての人達が「脇役」になる。

でも、それは自分が「上」で他人が「下」ということではなく。

相手も相手の物語の中で「主役」を演じている。

自分は自分らしく「主役」として自分の物語を生きる。それが出来ていれば、その自分の営みは、他人の物語の中での「名脇役」として役割を自然と果たす事が出来ている。

ぼくはそんな世界を創りたい。